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昨年10月から今年3月まで放映されていたテレビアニメ『おそ松さん』に激ハマりしました。普段あまりアニメを見ないもので、「なんだか人気らしいぞ」と気になって初めて視聴したのが2月。「こんな面白い作品を見逃していたなんてなんてもったいないことをしていたんだろう…!」と天を仰ぎました。
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出典:TVアニメ『おそ松さん』公式サイト(C)赤塚不二夫/おそ松さん製作委員会

何がそんなに面白かったのかというと、理由はいくつかあります。“笑い”の種類が王道ギャグや下ネタ、不条理ナンセンスギャグ、複数の芸人がわちゃわちゃするお笑い番組のような楽しさなど多岐に渡っていてどんな人でも笑えるシーンがあるところも「上手いなぁ!」と思ったし、「昭和を象徴するような赤塚作品をいかに平成らしくお洒落に生まれ変わらせたか」と美術や音楽に注目して見るのも面白かった。クリエイターにとっては学びがたくさんある作品だと思います。でも、私が一番惹かれたのはストーリーでした。
「え、『おそ松さん』って頭からっぽにして見られるアニメでしょ?ストーリーなんてなくない?」と思う人もいるかもしれません。私も最初はそのつもりで見始めたんですが、ところどころ「ん…?」「…え?」「おお…?」と引っかかる箇所があって、「もしかしてこういう風にも読み解けるのでは…?え、それむちゃくちゃ面白くない…?」と考えるようになりました。
それでそのほとばしる熱いパトスをフェイスブックに書き散らしたら、たくさんの人が「ギャグアニメには興味がないけどそういう話なら見てみたい」「面白さがわからなくて視聴をやめたけどもう一回見てみる」とコメントをくれて、10人以上の人が見てくれたんですよ!松仲間が増えた〜!嬉しい!というわけで、調子に乗ってブログにも書いてみようと思った次第です。
本題に戻ります。じゃあどんなストーリーだと捉えたのかというと、柱はふたつあったのでは?と思っています。ひとつは、「大人になりきれないアダルトチルドレンたちがクズでダメな自分自身を肯定して大人になること」。そして、「その過程を通して、“これでいいのだ!”に代表される赤塚イズムを現代社会に復活させること」。

『おそ松さん』を見た人も見たことない人もわけわかんないと思うので、なんでそう考えたのか説明していきますね。

「これでいいのだ!」と言ってくれる人が死んだ世界

まず第一話のあらすじを簡単に説明すると、

「赤塚不二夫生誕80周年を記念して僕ら6つ子がまたアニメになることになったよ!」「でもこんな昭和な僕たちが平成で人気出るかな?」「よーし、イケメン化して腐女子に媚びよう!ヒット作を全部パクっちゃおう!」「…いやこれもう赤塚アニメじゃないよ、ダメじゃん!」「じゃあどうすりゃいいの?」「わかんない!」——そうして6つ子は何をしたらいいのかわからないまま体だけが大人になり、ニートで童貞の『おそ松さん』になりました。
というものでした。ちなみに『おそ松くん』は「同じ顔が6つあり、見分けがつかないこと」が面白さのひとつだったけれど、最終的に6つ子はイヤミやチビ太に主役の座を奪われ背景と化しました。そのせいか、今回の『おそ松さん』では、6つ子1人ひとりに豊かな個性が付与されています。
この設定がね、なんかこう…いまの若者が置かれている状況を象徴しているように感じてしまったんですよ。
古き良き昭和は過ぎ去り、経済成長神話は崩壊し、親世代と同じ進路選択をしてもその先に明るい未来があるか保証はない。でも人と違うこと、目立ったことをすると四方八方から批判されてすぐに炎上する。「これでいいのだ!」と全てを笑い飛ばし肯定してくれる人は死に、世の中が発するメッセージは「こうすべき」ばかり。
親から愛されるため、異性から選ばれるため、自分を取り巻く世界に受け入れられ一人前だと認められるために、少しずつ自分を偽りキャラをつくり、誰かの「よいこ」であろうとする。そうしていくうちに自分が本当に望んでいることがわからなくなる、何をすればいいのかわからなくなる。そりゃニートにもなるよね。と。

ちなみにオープニングの『はなまるぴっぴはよいこだけ』には“この世に要るのはよいこだけ”というフレーズがあります。如実に表していると思います、いまの世の中の息苦しさを。

就職したら人は「大人」になるの?

で、2話からはそういう世界に再び生を受けた6つ子の奮闘が始まるわけですが、彼らはまず「就職しよう」とします。でも、彼らが向かう先に待っているのは “自分の仕事の意味を教えてもらえない”ブラック工場だったり、“何の役に立っているのか全くわからない情報で大金を稼ぐ”情報商材会社だったりします。
ブラック工場で「何も考えずひたすら働くこと」を無理強いされた6つ子たちは、イヤミに「これが仕事!これが社会!お前たちもようやく立派な大人になってきたざんす」「あ、そ〜れ!おっとなになぁ〜れ♫」と洗脳されます。そして夜にハッと「もしかして騙されてない?」と気づいて逃げ出すんですが……これすごくないですか?

大人になったら働かないといけない。これは世間一般の常識といっていいと思います。でも、人は就職して働きさえすれば大人になったと言えるのでしょうか。自分の仕事が世の中にどう役立つのか全くわからないまま、ただ人に言われるがままに手を動かすだけでも?

「企業で働く」という労働形態が一般的になったのはここ数十年のこと。それまでは多くの人が農家や商店主として働いていて、自分の仕事が誰の役に立っているかは明確でした。サラリーマンという働き方が生まれたのは1920年代と言われていますが、それもしばらくは終身雇用が前提で、企業はひとつのコミュニティのような存在だったはずです。
いまは違いますよね。もちろんそういう企業もありますが、安い賃金で若者を使い倒す企業も少なくないわけです。そこで我慢して働きつづければ報われるという保証はどこにもない。でも、転職先がホワイト企業という保証もやっぱりないし、就職しなければニートと言われ一人前の大人とは認めてもらえない。そうしてがんじがらめになって鬱になってしまう人が、いまの世の中にはたくさんいます。
そこで会社で働くことを辞めて情報商材などを売って稼ぐ人もいますが、それらは得てして中身のないもので、情弱からお金を巻き上げるためのものだったりしますよね(めっちゃ役立つ情報商材売ってる人がいたらごめんなさい…)。

とにかく、「会社に就職すれば/働けば」=「大人になれる」わけではない。みんなそれを常識のようにいうけれど、それって本当なの?そう、『おそ松さん』は皮肉っているように思えます。

6つ子=アダルトチルドレン?

世界観について話したので、次はキャラクターについて。冒頭で私はアダルトチルドレンという単語を出しました。それは第一話でイケメンアイドルになった6つ子が「大人になりきれない、なりたくない!これでいいのだ Let’s have fun!」と歌っていたからなのですが、アダルトチルドレンにはいくつかの型があるといいます。
家族の期待に応えようと頑張る「ヒーロー」、家族内の緊張や暴力を自分が無意識に引き受けることで防ごうとする「スケープ・ゴート」、熱心に周囲の世話を焼くけれど自分の問題を見ようとしない「ケア・テイカー」、存在しないふりをして家族のバランスを保つ「ロスト・ワン」、おどけた仮面をかぶり周囲の緊張を和らげる「クラウン」、溺愛されるけれど、家族に都合のいい人格や意思以外を持つことを許されない「プリンス・プリンセス」。
これ、上から順におそ松、カラ松、チョロ松、一松、十四松、トド松に当てはまるところがあるな、と思います。もちろん全てそのままではないけれど、傾向としてこういう性質をそれぞれ持っているんじゃないかな。
そんな彼らが兄弟や友達と関わるとき、そこにはさまざまなディスコミュニケーションが生まれます。その様子がね、「ああ、私もこういう間違いをしたなぁ…」とか、「ああ、いるいる、こういう人」と想起させるんです。すごくリアル。
『おそ松さん』は基本的に一話完結のギャグアニメです。話の中で大けがをしても死んでも、次の回ではケロリとしている。でも、どうやら起こったことが100%リセットされているわけではないようです。彼らは少しずつ変わっているし、人間関係もゆるやかに変化していく。

1人ひとりがどんな課題を抱えていて、それに対してどう向き合っていったか。そうした視点で見ると、6人がちゃんと精神的に成長している(ように見える)んですよ!後半からは特にそれが加速していて胸熱でした。

メタ視点を持つおそ松が目指したもの

それらに加えて、キャラクターがメタ視点を持っているのが『おそ松さん』の特徴のひとつです。メタフィクションやメタ視点について正確に説明しようと思うとややこしいんですが、ここでは思いきり噛み砕いて「物語のキャラクターが、自分がキャラクターであることを知っていること」とでも言っておきましょうか。

第一話の構造からしてむちゃくちゃメタですよね。「平成で人気作品になるにはどうしたらいい?」とおそ松たちが作戦会議をしているんですから。
それ以降も、居間に赤塚先生の遺影が飾られていたり、そのものずばり「主役争奪カーレース」が開催されたりと、キャラクターはみんな“自分たちが『おそ松さん』という作品のキャラクターである”という前提を持っています。
じゃあ赤塚不二夫生誕80周年記念アニメである『おそ松さん』のキャラクターとして一番大事なことは何かといったら、「赤塚作品の面白さを現代の人に伝えること」「赤塚イズムを再評価させること」ではないでしょうか。これは妄想の域を出ていないんですが、ほかの兄弟はともかく、おそ松はそんな目的意識を持っていたんじゃないかと思います。
赤塚コミックと思わしきものを読んでいたり、赤塚先生の遺影を眺めている(と取れる)カットがあったり、気になるシーンがいくつかあるんですよ。
前項で私はおそ松をアダルトチルドレンの類型でいうところの“ヒーロー”と書きましたが、家族の期待に応えるヒーローというよりも、赤塚ヒーローとしての意識が強かったんじゃないかな、という気がします。
そしてそれは、「ダヨ〜ン相談室」で「ギャグアニメって
荷が重いから自己責任アニメって名乗らない?」と相談し、「逃げ出したーい」と叫んでいたことからわかるように、かなりのプレッシャーだったはずです。

そう仮定して見るとまたおそ松というキャラクターにも作品にも深みが出て面白くてですね…!

24話・25話(最終話)は人によってかなり意見が分かれる内容ですが、私は「『おそ松さん』は見事に赤塚イズムを復活させたなぁ」と思っています。世の中の常識をひっくり返して、クズでダメで童貞ニートな自分たちをそれでも「これでいいのだ」と肯定して。

誰からも「これでいいのだ!」と言ってもらえない時代、自分に自分で「これでいいのだ!」と言っていくしかありません。どうしようもない部分を持った6つ子を「ほんっとクズだな、ダメだなあ」と笑いつつ愛おしむことは、自分自身のダメな部分を受け入れることにつながるのではないでしょうか。
『おそ松さん』がヒットした要因は、「人気声優を登用したから」でもあるし「腐女子をターゲットにしたから」でもあると思うのですが、「この時代に多くの人が必要としているメッセージを内包していたから」でもあるんじゃないかな。

いまの社会に息苦しさを感じたり、家族や友人とディスコミュニケーションに悩んだりしたことがある人にぜひ見てほしい。笑ったり、キャラクターに自分を重ねて「ウッ…」とのたうち回ったり、笑ったり、「成長したねぇ君…!」と胸を熱くしたり、笑ったり、あまりのバカバカしさになぜかものすごいパワーが湧いてきたりするはずです。

まあいままで書いたこと全部、公式は一切触れていませんし、考察厨の戯言に過ぎません。私のフェイスブックの投稿を見て『おそ松さん』を視聴してくれた友人数人から「全然わかんないんだけど!本当にそういう話なの!?」と言われたし……。
「こういう話だよ!」と断定するつもりはありませんし、見る人によって全く違う作品に見えるのが『おそ松さん』という作品の魅力でもあるのでみんな好きなように見たらいいと思うのですが、同じ視点で語り合える人が圧倒的に少なくて吐き出す機会がないので、私の頭の中はいまだに『おそ松さん』について語りたいことでいっぱいです。放送が終わって二ヶ月近くも経とうとしているのに!
「具体的にどこがそう読み取れるのか解説してほしい」というリクエストもちょっとだけあったので、次回はもう少し詳しく、「6つ子はそれぞれどう成長したのか」「“大人になりたくない僕ら”の変遷〜戦後日本文学からサブカルチャー、そして『おそ松さん』23話〜最終話をどう読み解くか」あたりについて書きたいと思います。

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