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引き続きTVアニメ『おそ松さん』の妄想考察です。
今回は6つ子ひとりひとりに焦点を当てて、彼らがどんな課題を抱えていて、どう乗り越えていった(ように見える)のかを振り返りたいと思います。先に書いた通り、私は彼らをアダルトチルドレンと捉えているので、それも踏まえながら。

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デカンバッチ トド松

まずトド松。要領が良く社会でも普通にやっていけそうな彼は、それ故に「平等を最優先する」「抜け駆けを許さない」兄弟たちに常に足を引っ張られてきました。

あの兄弟のダメなところのひとつは自分と兄弟との境界線が曖昧で、成人してなお「俺があいつで俺たちは俺」なところだと思います。『パチンコ警察』『トド松と5人の悪魔』あたりのエピソードは、毒親の元で育った人には地雷かもしれません。

それでもめげないトッティは、『トド松のライン』で「兄弟だからと言って何でもかんでも共有するのはおかしくない?」と自分と兄弟との間にきっちりライン(=境界線)を引きました。チョロ松から「何の報告もせんでよし」という言質を取った流れ、完全に計算だと思います。お見事!と拍手したくなりました。

そうして『希望の星』では「もう二度と足をひっぱることはやめて」とはっきり言い渡して合コンリベンジに挑むわけですが、結果は女の子に「何もなし男」と言われるという悲惨なものでした。「女の子に好かれる筈のトッティがなぜ…!」と思ったけど、もしかすると今までデートしていた女の子たちにトッティは嘘をついていたのかもしれません。スタバァのときのように、慶大生とかステータスを偽って。それがこの合コンでは嘘をつかず、ニートであることを正直に言ったのではないでしょうか。

アダルトチルドレンの類型でいうならトッティは「プリンス」。周囲の望む通りの言動を強要される子です。“人身掌握術の天才”になったのもそれ故でしょう。でも彼は『希望の星』で、誰かが望む姿を演じるのではなく、素の自分で勝負した。そうだとしたらこれはすごいことだと思います。

24話では、勝ち戦しかしないはずだったのにおそ松に殴りかかる姿を見せてくれました。かっこいいな〜トッティ!

次に十四松。彼は家族間の緊張を和らげるためにおどける「クラウン」そのもの。そんな彼は『十四松の恋』のとき、“松野家を出て働き彼女と生きる”という選択を取ることができませんでした。

『面接』で描かれたように、クラウンでいれば松野家では怒られないし愛される。彼女も笑ってくれる。でもそれだけじゃダメなんだ、お互いを選び一緒に生きていくことはできないんだ。そう考えた結果が“株取引”であり、「自我とか自己認識とか存在意義とか案外どうでもいいことなんだ」「もっと身軽になろう」と名前から“松”を取った『十四松と概念』回であったんじゃないかな、と思います。

自分で自分を肯定できる彼はもう、誰かから主役の座を与えられる必要がない。だから“主役争奪カーレース”に参加しなかったのでしょう。

24話でおそ松にやたらぶつかっていたのは十中八九わざとですが、緊張を和らげるどころか悪化させてしまったことで、クラウンの仮面を脱ぐ決心をしたのだろうと思います。採用の連絡を受けたときの電話応対にその姿勢が表れていました。

一松は最初の頃、兄弟の会話に参加せずまさに「ロストワン」という感じだったけど、一度捨てた“本音”を十四松が取り戻してくれた(というか、暴露させられたというべきか…)辺りからむちゃくちゃノリが良くなりましたね。

彼の課題は、“自己肯定感の低さから、他人が差し出す優しさを受け取ることができないこと”だったんじゃないかと捉えています。エスニャン回では「友達ができないのは自分にその価値がないから」と考えていることが明らかになり、『本当は気まずい鶴の恩返し』では恩返しを断っていました。

でも、一松がクリスマスに邪魔をした彼氏くん彼女ちゃんは、24話で空腹に倒れた一松にラーメンを奢ってくれました。自分に価値があるかどうかに関係なく、優しくしてくれる人はいる。かつてあんなに冷たくしたのに自分を庇ってくれた次男のように、世界は結構優しい。

ところで、“野良猫に餌を与える”という行為は、現実世界では賛否両論ある行為ですよね。根が真面目な一松なことです、当然そういうこともわかっていて、野良猫をただ可愛がるだけで責任を持って飼おうとしない自分をクズだと思っていたんじゃないかな、と想像しています。

でも24話で自分が野良猫の立場になって、自分がしていた行為にはエゴや偽善が混じっていたかもしれないけど、確かに猫を救い暖めていたのだと知った。自分の優しさも他人の優しさもちゃんと認めて受け入れられるようになった。そういうシーンだったんじゃないかな、あれは。

一松が2話で合体していたのは“野良猫”ですが、松野家で彼はずっとおそ松やチョロ松の飼い猫のように振る舞っていました。24話で一度野良猫として生きてみて、彼はようやく“猫”を自分のアイデンティティにすることができた。だから25話で堂々と「猫転換手術がしたい」と言えたのではないかと思っています。

チョロ松はいつも「就職しないと」と兄弟たちを焚きつけて“唯一の常識人”のように振る舞っているけれど、口先だけで行動は伴わず、結局は“周囲からどう見られるか”を気にしているだけでした。まさに人の世話を焼いて自分の問題から目を逸らす「イネイブラー」。

でも、おそ松・トド松によって自意識を可視化され、イヤミのお笑い指導では「何も生み出していない」「一番キツい」とメッタ刺しにされ、ようやく自分のダメさと向き合うことができました。プライドの高いチョロ松にとって、今まで見ないふりをしてきた自分のダメな部分、醜い部分と向き合うのは辛いことだったはずです。一度は開き直ったもののそのまま振り切ることはできず、『ダヨーン族』では現実を投げ出しダヨーンの体内世界に留まろうとしていました。

けれど、ダヨーン族の娘から愛ある突き放しを受けて、彼は再び現実世界で生きていく勇気を持ちました。あの号泣からの清々しい笑顔と言ったら!24話ではしっかりと就職先を決めて家を出ていき、“口先だけ”を脱却しました。

カラ松はずっと「兄弟に優しい…俺!」というナルシシズム混じりの愛を兄弟に差し出しスルーされつづけていましたね。でも彼は、服装のせいで周囲を傷つけていると思ったら躊躇なく脱ぎ捨て、「不満があれば遠慮なく言ってくれていい」と兄弟に尋ねるなど、改善のための努力を惜しみませんでした。その不憫さ健気さに胸を打たれてカラ松ガールズになった人も多いんじゃないかと思います(私です…)。

それでもなお兄弟たちから顧みられることのなかったカラ松は、ついに“自分がいないと死ぬと喚くメンヘラ女”と結婚します。見事な共依存。でも、この経験からカラ松は自分の優しさがどういう種類のものだったのかを学んだんじゃないかな。だから『灯油』で「行き過ぎた愛は人をだめにする」と言えたのでしょう。灯油を入れないこと、それは「スケープゴート」であることをやめたということでもあると思います。

チビ太との関係性の変化も印象的でした。『チビ太とおでん』では暴走するチビ太に対して何も言えなくて、『花のいのち』ではチビ太を心配しつつも声をかけられなくて。それが24話ではきちんと自分の気持ちを伝え、頭を下げることができていました。成長したなぁ…。

ちなみに、カラ松は胸ぐらを掴まれて涙ぐむ気の弱さも持っているけれど、世間とはズレた自分の美学を貫く強さも併せ持っているんですよね。しかも『麻雀』を見るに、“兄弟はカラ松をただの弱い奴だと思っているけれど、独自の美学を優先するため勝てないだけで、本当は強い”。24話ではそんな“強い兄”としての一面をやっと披露してくれました。

周囲を気にしすぎて本当の自分を出せない一松がそんなカラ松に苛立つのは当然だと思います。俺と同じ弱者のくせになんでこいつは傷つかないんだ、俺は自分を守るために他者を攻撃するのになんでこいつはあくまで優しいんだ、どうしたら同じところまで堕ちてくるんだ、全然歯が立たない、どこまで強いんだよこいつ、と(一松のこじらせた感情を妄想するの超楽しい)。

色々あったけど、『一松事変』と、最終回の「いいなぁ〜」「フフーン」のやりとりを見て、もうカラ松はスルーされないし、スルーされたとしても隣には心の中で拍手を送っている弟がいるから大丈夫なんだな、と安心しました。

最後におそ松。彼は6つ子の中でひとりだけ私服を着ているシーンが出てきません。これは“6つ子の長男”以外のアイデンティティを持っていないことを象徴しているんだと思います。

『おそ松の憂鬱』では、その唯一のアイデンティティである長男の座を聖澤庄之助に取って変わられるという残酷な悪ふざけが描かれていました。ここでおそ松は「ヒーロー」の仮面を被ったんじゃないかな。
それ以降ずっと「兄弟のことをよく理解しているいいお兄ちゃん」面をしていて、「“あいつらは5人の味方じゃなくて5人の敵”と言い切っていた君はどこへ行ったんだ…」と心配していたんですが、最終回できっちり「お前らは5人の敵!」と言い切っていたのですっきりしました。

(ちなみにこれはさすがに深読みが過ぎるかもしれませんが、聖澤庄之助を心理学でいう“見捨てられ不安”の象徴と仮定して見るのも面白いです。『なごみのおそ松』でカラ松を殺したのも“見捨てられ不安”。でも、カラ松のそれはフラワーが殺してくれました。おそ松は『時代劇おそ松さん』と最終回とできっちり聖澤庄之助を殺しています。時代劇で刀を持っていたのはおそ松とカラ松だけだし、ダースベーダーの目は赤いし。)

それに加えておそ松は「赤塚ヒーロー」としての責任や重圧を背負っていたんじゃないかな、と捉えているんですが、これは本筋にも関わるところなのでまた次回じっくり書くことにします。ひとつだけ言うと、故人の墓を蹴り倒し、「感傷に浸るのはもうおしまい」と宣言する描写に、「赤塚ヒーローという呪縛を乗り越えることができたんだな」とほっとしました。

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(内容に全然関係ないけど、『PUTITTOおそ松さん』の長兄松、全然コップのフチに引っかからなくないですか…?うちのコップはほぼ全滅で、唯一安定したのが『能作』のぐい呑みでした。高い器にしか引っかからないニート……)

……と、この時点で既に4千字超え。本当はこの6倍位語りたいけど、収拾がつかなくなるのでこのへんに留めておきます。キャラクターに関する感想をまとめると、「6人6様の人生を、課題と葛藤と克服と成長を見た・・!」という満足感がありました。6人分の濃密な物語を味わうことができる。なんて贅沢な作品なんでしょう。

見る人によってキャラ解釈が全く異なるところも面白いな、と思います。人間ってそういうものですよね。同じ人と接しても抱く印象は人によって違うし、「こういう人だな」と思っていたら「こういう一面もあったんだ…!」と驚かされたりする。そういう意味でも彼らはすごくリアルで人間らしい。だから、どんな解釈をしてもいいんじゃないかな、と思っています。

ところで私は好きな作品を鑑賞するにあたって、金城一紀さんの『映画篇』という小説に出てくる大学教授の言葉を参考にしています。映画に関する膨大な知識を持つ教授は、主人公にさまざまな名作の読み解き方を教えたあと、「君は人を好きになったらどうするの?」と問いかけます。今回はその言葉を引用して締めたいと思います。

「君が人を好きに時に取るべき最善の方法は、その人のことをきちんと知ろうと目を凝らし、耳をすますことだ。

そうすると、君はその人が自分の思っていたよりも単純ではないことに気づく。極端なことを言えば、君はその人のことを実は何も知っていなかったのを思い知る。

そこに至って、普段は軽く受け流していた言動でも、きちんと意味を考えざるを得なくなる。この人の本当に言いたいことはなんだろう?この人は何でこんな考え方をするんだろう?ってね。

難しくても決して投げ出さずにそれらの答えを出し続ける限り、君は次々に新しい問いを発するその人から目が離せなくなっていって、前よりもどんどん好きになっていく。と同時に、君は多くのものを与えられている。

たとえ、必死で出したすべての答えが間違っていたとしてもね」

 


「まあ、人であれ映画であれなんであれ、知った気になって接した瞬間に相手は新しい顔を見せてくれなくなるし、君の停滞も始まるもんだよ」

 

 

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