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前編からの続きです。

“赤塚ヒーロー”という呪縛から逃れ、自分の意志で世界を引っ掻き回すことを選んだ25話

そして迎えた最終回、6つ子は見事に “ドンデンバラエティー”してくれましたね。

彼らが手にしたのは「火」。「灯油」と同じく場をあたためるものであり、全てを無に返すもの。「なごみ」(≒ギャグ)の象徴です。

「センバツ」会場の背景にはガスタンクが映っていて、「藤田ガス」と書かれています。赤塚先生に代わって、藤田監督がおそ松に魔法を授けた、ということでしょうか。トト子ちゃんとファックスしたいという一心でバットを巨大化させ球を打つとか、相手投手の顔面が完全に女性器なところとか、同じく藤田監督が手がける『銀魂』とノリが似ています。(もしかして相手チームの「四銀」って銀魂四期にかけてる……?)

なお、25話ではおそ松の「長男として、赤塚ヒーローとして期待に応えようと感情を押し殺してしまう」という課題の解消が描かれていました。前者は、兄弟に「お前らは5人の敵!」とはっきり言うことで、後者はコーチ松の墓を蹴り倒すことで。

故人の墓を蹴り倒し、「感傷に浸るのはおしまい」と言う。あれは多分、赤塚先生の死を乗り越えて好きなように暴れてやるという意思表示だと思います。そのほうが赤塚先生も喜ぶのではないでしょうか。赤塚ヒーローであろうとすることを捨てることで、真の赤塚ヒーローになれるという皮肉。ヒーローズジャーニーにおいても「父殺し」は重要なステップです。

(余談ですが、コーチ松って『タッチ』の柏葉英二郎ですよね。『タッチ』は『おそ松くん』と同時期にアニメが放映されていたんですよね。そして、あだち充の兄のあだち勉は赤塚先生の愛弟子。赤塚先生と同じく豪快な人物だったそうです。その辺りも踏まえて柏葉監督だったのかな)

ド直球な下ネタとグダグダの展開には「どうしようもないな…」と脱力したけど、要所要所にハッとするシーンがあって、『はなまるぴっぴはよいこだけ』が流れるシーンには謎の感動を覚えました。オールスターでの『SIX SHAME FACES』もよかったな。

2クールのオープニング映像は、“6つ子がそれぞれ自分の色のついた道をひた走る”“力を合わせて冷たい雪の舞う世界に「火」をもたらし、世界を輝かせる”“そしてまた銭湯(ぬるま湯の日常)へ戻る”というものでしたが、まさに2クール目の内容をそのまま表していたと思います。
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結論。6つ子は決して成熟を拒否したわけじゃない(と思う)

というわけで私は、「6つ子はニートも童貞も卒業していないけれど、決して成熟を拒否したわけではなくて、既存の大人像とは違う形の大人になることを選んだ」と言えると考えています。ハッキリと「大人になった」とは言えないけれど、大人になろうと「試みた」。そして負けた。

でも、それでいいのだと思います。現実社会だって挑戦と失敗の繰り返しです。少なくとも私は、6つ子が心をひとつにして全力を出し切る姿に胸が熱くなりました。(たとえ動機がアレでも!)

ただ、それは私自身が会社員時代ものすごく感情を抑圧してしんどくて、いまフリーランスでのびのびと自由を謳歌しているからかもしれません。「就活も会社員として働くことも楽しいし、この社会に不満なんてないよ!」という人からしたら、あれが「成熟の拒否」であり「甘え」に見えてもおかしくないと思います。 もしくはおそ松によるほかの兄弟への「呪い」かな。

おそらく、あの最終回をどう捉えるかには、その人がいまの社会をどう眺めていて、大人になるとはどういうことだと考えているかが少なからず反映されるはず。だからいろんな人と松語りしたいんですよね!反対意見も聞きたい。

(あと、最終回の「松野家は蛇」が気になっています。公式や藤田監督のツイッターには「りんごにおそ松の絵を描いた写真」がアップされていたし、カラ松は『事変』で「兄弟全員の罪を背負って磔にされ」「知らないふりをされ」「石を投げられ」ました。よく知らないから下手なこと言えないけど、これ聖書じゃないですか…。キリスト教に詳しい人に解説してもらいたい〜)

ちなみに、24話で十四松がバイトしていた工場のホワイトボードには意味深な図が描かれていました。

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TVアニメ『おそ松さん』24話より引用 (c)赤塚不二夫/おそ松さん製作委員会

Bルート、Aルート、フラグ回収。矢印は循環しています。また、この画像では小さくて見えませんが、「好きだ」という文字に赤い丸がつけられています。ツイッターで、「6つ子が外の世界に“好きだ”を見つけられたらループから抜け出せるんじゃないか」と呟いていた人がいました。
6つ子が自分の個性を活かして好きな職業に就くなら私も大賛成です。“いつかの未来で叶う”といいなぁ。

“大人になりたくない僕ら”の変遷。戦後文学からサブカルチャーへ

さて、ここまで『おそ松さん』に絞って考察してきましたが、少し視野を広げてみると、“大人になりたくない僕ら”というキャラクター造形はどこか既視感を感じます。

最近読んだ本に大塚英志さんの『初心者のための“文学”』があるのですが、そこにはこんなことが書かれていました。

近代以前、人は「ムラ」という小さく具体的な集団に属していてそれが世界の全てであり、自分の役割も分かりやすかった。しかし近代は「社会」や「国家」という抽象的な概念が持ち込まれ、人は「私」とは何か、「私」と「社会」の関わりとは何かという問いを持った。その問いに対する答えを模索し、失敗してきたのが近代文学。

戦時中はナショナリズムが高まり「日本人として戦う私」という根拠ができるので、自分の内側に拠り所がなくからっぽな「私」たちも生き生きとしていられた。しかしそれは幻想に過ぎないので、戦争が終わると「私」は再びからっぽな自分、つまらない「日常」と向き合わざるを得なくなる。戦後の「生きづらさ」と現代の子どもが抱える「生きづらさ」は似ている。

『19歳の地図』で、「子ども」でいたい僕は世界への脅えを「敵」に転嫁し、空想の「地図」を描くことで子どもでありつづけようとした。

『芽むしり仔撃ち』で、時間が停止し「成長」が奪われた「村」の中で、子どもたちは「子どもではない何かになろう」とした。しかし、彼らは「暴力」を受け入れることで、「村人」たちと同じ種類の人間になってしまった。ただひとり「村人」になることを拒否した「僕」は、ピーターパンのように成長を拒んだわけではない。「村人」とは違う形で「子どもではない何者か」になるため、暗い闇に出発した。

かつては文学が担っていたこの“成熟”というテーマを、現在はアニメなどのサブカルチャーが描いている。

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そうそう、まさにそう。押井守監督の『うる星やつら・ビューティフルドリーマー』は“永遠に続く青春”を背負わされた日常系アニメの主人公が「大人になること」を力強く選び取る話だし、『魔法少女まどかマギカ』は世界を変えて大人になる話で、劇場版『叛逆の物語』は世界を変えて大人になることを拒否する話だと言えると思います。

“大人になりたくない”少年少女は、日常をどう受け入れるのか、あるいは拒むのか。どんな形の成熟を選んできたのか。その系譜を時代背景と照らし合わせながら追い、その上で「やっぱり『おそ松さん』は成熟を拒否しているのではない」と論証したいな。

それには古典文学から近代文学、ヒットしたアニメ、映画、漫画に一通り目を通さなければ。4年位かかりそうです。もう一度大学に通うつもりでカリキュラムを組んでみようかな。そしてその集大成として先の論文を書く。これこそ学びの本質……!

自分でも「病気かな?」という感じですが、『おそ松さん』を考察するのは本当に楽しかったし、『おそ松さん』は私の世界を広げてくれました。ギャグアニメだけど自己責任アニメで、かつ自己内省アニメであり究極の自己肯定アニメでもありました。そして、現代を生きる私たちに必要なメッセージがたっぷり詰まっていたと思います。

ああ、面白かった!

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