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前編からの続きです。

さて、そうして始まった2期、OPも1話も2話も素晴らしくてそれだけで数千字語れてしまうのですが、収拾つかなくなるのでとりあえず今回のテーマに沿ったとこだけ抽出します。

まず2話「超洗剤」。これ、私は「彼らの境界線が曖昧なのは、周囲がちゃんと“個”として見てくれなかったからだよ」ということを改めて描写したんだと思いました。

外身が似ていても、6つ子の内蔵(中身)はそれぞれ異なる個性を持っている。でも、人はわかりやすい「記号」、適当に施したペイントでしか彼らを識別していない。子どもの頃からずっと6人で1人として認識されてきて、成長してせっかくそれぞれ個性を持ったのにそれも記号的にしか扱われず、本当の自分は見てもらえない。その悲しみから6つ子は抱き合って泣き、表面に施した絵の具が溶けて境界線がどろどろになる。2期1クールOP「君氏危うくも近う寄れ」のワンフレーズ、「少年! お前は思ったより曖昧透明でふちのなし」そのものです。

また、1期2話で「おそ松には6つ子の長男以外のアイデンティティがない」と描かれたのと対になる形で、今回も「おそ松の特徴は6つ子の“プレーン”であること。強いて挙げるなら“バカでクズでゴミでエロい”程度の特徴しかない、誰もおそ松の本質がわからない」と描写されました。一方、2話Aパートでは「期待という名の暴力から逃れるためにクズとして努力してきた」という彼の本音がちらりと提示されています。

『おそ松さん』という作品がもし、「共同体の崩壊と“俺たち”という主語の喪失」を描いているとしたら、次に来るのは「本当の自分とは?」という問いのはずです。3話4話と連続して「見て見ぬふり」というキーワードが出たので、「“ちゃんとしてる”“見て見ぬふりしない”が2期の重要ワードかもしれないな。今期で最終的に選択を迫られるのは、“本当の自分とは”という問いをおそ松が見て見ぬふりするかどうかかな」と思いました。

で、6話「イヤミがやってきた」です。松野家に侵入し、赤塚先生の本やサングラスや猫じゃらしなど6つ子それぞれの個性を象徴するものを食べ、センターで眠るイヤミ。翌朝は赤の松パーカーを着て、おそ松と同じポーズでくっちゃ寝、床にはエロ本が転がっています。「バカでクズでゴミでエロい」、しかもそれはイヤミなりの努力の結果勝ち取ったものだから「努力したクズ」。全部おそ松の特徴です。まさに「主役を食いにきた」。

肝心のおそ松はやられっぱなしです。1期6話では完全勝利していたし、主役争奪レースでもイヤミに負けず劣らず主役への執念を見せていたのに、その影はどこへやら。完全に弱体化してるじゃんどうしちゃったの!? と呆然としていたところに、具現化ブーメラン。「ちゃんと反省しないといつかひとりになっちゃうぞ」。

私、なんだかんだ言っておそ松にとって一番大事なことは主人公として赤塚イズムを体現することで、6つ子という共同体の維持はその手段としての要素が強いと思っていたんですよ。でも、彼にとっては「1人になってしまうこと=6つ子の長男というアイデンティティを失うこと」への恐怖が勝つのか。2期1話以降赤塚先生の遺影映らないのもそういうことなの? ……と、ちょっと衝撃を受けた回でした。

その後の回でもおそ松はやられっぱなしでパッとせず、1期の彼はどこへ……?状態。なんかおそ松が揺らぐと『おそ松さん』という作品もこう、輪郭がぼやけるというか、ちょっとダレるというか……。20話「こぼれ話集」で絶対英雄チャントシターがいつまでたっても出動しないようなダレた雰囲気が2期全体を通して漂っていたように思います。

ただ、おそ松もちゃんとそのことをわかってたんじゃないかという気がします。「深夜の日松屋」回の「もう一盛り上がりないと帰れない」発言、メタ的に解釈すると「もう一盛り上がりないとこのアニメ終われない」ということでしょう。そうやって主人公として逡巡するおそ松に対して、「悩むイヤミさん」回でプロデューサーが言い放ったのは「もうあと2回しかないんだから余計なことしないで」。ひどい話です。

そして迎えた24話、『桜』。ついに、1期から数えると49話分明確に描かれてこなかったおそ松の心境が、ついに露になって、私はもう……もう…………!

松造が倒れたことによって6つ子は自立や就職に向かって動き出すわけですが、1期24話であんなにも冷たく描かれた「松野家の外の世界」は今回そんなに酷いものではなく、それぞれの個性も死んでいません。兄弟としてつながりを保ちつも、ゆるやかに離れていく。それは少し寂しいけど、すごく自然な自立の形。

なのに今回おそ松が「これでいいのか?」「いまの俺、かっこいい?」と悩んでいたのは、やっぱり彼が「6人で赤塚ヒーローになること」を目指していたからだと思います。働いて給料貰うのは案外悪くなかった、でもそれじゃイヤミと宝探しに行けない、ギャグアニメの主人公を張れない。ひとり河原で缶ビールを飲みながら桜を見上げるのもいいけど、やっぱりみんなでどんちゃん騒ぎしながら花見をしたい。

ちゃんとするってどういうことなんだろう。
現実社会の規範に沿って、自立して社会人になること?
赤塚作品の主人公として全てをぶち壊すこと?
あいつらはどう考えてるんだろう。俺はどうすればいいんだろう。

おそ松は2期の間、いや1期からずっと、そう悩んでいたんじゃないかな。
大家族の長男として本当はどう振る舞うべきかは知っていて(「松造と松代」回で彼は兄弟の誰よりも身を挺して父を守っていました)、その上でクズであろうと努力していて。

1期24話で手紙を燃やして兄弟を家に戻したのはおそ松で、でもその先に始まった2期では未来のないどん詰まりの停滞感が重く漂っていて、「本当にこれでよかったのか?」と自問せざるをえなくて。それならば、とみんなで自立することを選んだけど、自分らしさを見失ってしまって。

彼がずっと気にしていたのは、「共同体の中での自分の役割」。だから共同体が弱くなると、途端に輪郭がぼやけてしまう。24話では、彼の一応の特徴とされてきた「バカでクズでゴミでエロい」要素が欠片もなく、長男なのに1期2話と違って兄弟の居場所がわからない。そして彼が主人公であることを象徴する最後の砦である「赤」い服は、真っ赤な夕焼けに溶けて背景と同化しそうに(モブ化の暗喩!)描かれています。そして、「大丈夫? まだちゃんとおそ松でいられてる?」発言。「俺」として生きてこなかった、松野おそ松のアイデンティティクライシス。見て見ぬふりできなくなったもの。

そんなおそ松を雑踏の中で見つけてくれて、「おそ松くんがかっこよかったことなんてないよ」「すっごくつまんなかった」、そして「自分で決めたら?」と言ってくれるトト子ちゃんは、本当に最高の幼なじみでありヒロインだと思います。おそ松がかっこよくなくてもつまんなくても隣にいてくれて、彼自身の言葉で背中を押してくれる。

ダメなところをさらけ出して、それを自分で「超絶可愛い」と肯定できるトト子ちゃんは赤塚イズムの真の体現者。おそ松はトト子ちゃんのそういうところが好きで、だから「となりのかわい子ちゃん」回での拗ねた振る舞いを「可愛くない」と言ったのでしょう。

「ちゃんとする」(大人になる)というのは、父親が倒れたから働いて支えるとか、家を出て一人暮らしするとか、そういう形式的なものじゃなくて、もっと内面的なこと。自分で自分のことを決めて、「これでいいのだ」と肯定すること。たとえ人から叩かれ炎上しても。

「赤塚作品の主人公としてどう振る舞うべきか」でも、「松野家の長男としてどんな行動をすべきか」でもなく、「松野おそ松は、俺は、どうしたいのか」。

23話で昭和的な自分は『おそ松さん』世界で浮いていると気にしていたイヤミは、24話では昭和のギャグアニメのトリックスターとして開き直っていた。トト子ちゃんも悩みながらも「となりのかわい子ちゃん」でいつづけることを選択した。赤塚の申し子のような彼らも悩む、悩んだ上で他者の目線より自分を大事にする。イヤミとトト子ちゃんが背中を見せてくれたおかげで、おそ松はやっと「これでいいのか?」と誰かのジャッジを気にするのでもなく、「しょうがないじゃんこれで」と諦めるのでもなく、「これでいいのだ」と思える選択をしようと決められたんだ。「俺」として。

なんて美しい物語なんでしょうか。

おそ松が1人でバイトを始めたのは1期2話「就職しよう」で“6人で1人”として働いた中華料理屋。おそ松が彷徨った街中は1期2話「おそ松の憂鬱」で兄弟を見つけた場所。1期24話で最後に取り残されたおそ松が今回は最初に「そろそろ自立とか就職とか」と兄弟を引っ張り、1期では拒絶したトト子ちゃんの呼びかけに答え、本音を吐露する。そして、「自分のことは自分で決めたい」という境地に辿り着いた後、赤塚先生の遺影が再び画面に映る。6つ子が座禅を組み瞑想すると背後の木が七変化して桜が咲き、赤塚先生の仏像が現れる2期1クールOPそのもの。

この巧みな演出! 丁寧な伏線の回収! 24話を観て、「信じて深読みしつづけてきてよかった……!」と慟哭しました。松は文学……!

続く25話は1期と同じくどんでん返しが起こるわけですが、私は24話でおそ松が「どうあるべきか」ではなく「どうしたいか」に辿り着いたことが全てだと思っていたので、万事OKです。

死んで白装束を着せられ自分の「色」を失った松たちですが、それぞれの個性は失われていません。50話に渡って彼らを見守り鍛えられた私たちは彼らを見分けることができます(何度も再生してコマ送りすれば……)。

「最終回なんだから死んでもしょうがない」と諦めていた彼らが生き返ろうと奮闘する姿は胸に迫るものがありました。しかも6つ子同士手を取り合い助け合って。私はもう2期で終わりでいいと思っていたけど、そんなに君たちが主人公でいたいならどこまでもついていくよ……!

6つ子は赤塚先生が垂らしてくれた蜘蛛の糸ではなく、1期と2期にかけて出会ってきた全ての人たちと自分たち自身(チャントシター、F6、実松)の力で再び現世に戻ってきました。

「黄泉の国に行き、追って来る魔物を振り払って現世に戻る」という物語は世界中にあり、それが象徴するものは「子どもから大人への移行、生まれ直し」にほかなりません。

「おそ松くん」ではなく「おそ松さん」としての、「俺たち」ではなく「俺」としての生まれ直し。6人ひとまとめにされていた写真が綺麗に6分割されたのがその証拠だと思います。もしかすると、1期25話で胎児のように宇宙を漂っていた彼らは、2期1クールOPで描かれているようにずっと戻ってくることに失敗し続け胎内に留まっているような状態で(松代マンモスに胎内回帰していたし……)、2期25話でようやくこの世に帰還した、ということなのかもしれません。

ちなみに、おそ松が弟たちに話そうとしていたのは、「俺はやっぱり、お前たちとこの作品の主人公でいたい。いい話で最終回なんて迎えたくない。でも、お前らはどうするよ?」みたいな内容だったんじゃないかなーと想像しています。でも地獄に落ちちゃったから、とにかく生き返ることが先決と、童貞を引き合いに出して弟たちを奮い立たせることにした。

3期では今度こそ、おそ松がちゃんと「俺」の気持ちを弟たちに伝えることを果たしてほしいなぁ。その上で気が済むまで絶好調してほしい。そんな望みを胸に、キーボードから手を離そうと思います。次男推しの人間としてはサマー仮面や「カラ松とブラザー」についても語りたいしおそ松とチョロ松の関係性の変化についても論じたいところだけど……本当にキリがないのでこのへんで。

『おそ松さん』2期、ありがとうございました!

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