名言デトックスのすゝめ②
前回のおはなし↓
前編でも書いたけど、名言そのものが毒なわけではありません。でも、服用する側が未熟だと副作用が出てしまうんですね。代表的な症状として、以下のものがあると感じました。
①絶対的な真理だと思ってしまい、融通が利かなくなる
「時代や国や人や環境が変わっても、どんなときでも通用する真理」なんてそう多くはないはず。その言葉を口にした人だって、数年後の別の状況では正反対のことを言っているかもしれません。でも、前後の文脈からその言葉だけ切り離してしまうと、何だか絶対的な真理のように響きます。「シンプルでわかりやすい強い言葉」は特に。
たとえば、「すべてを自分の責任として受け入れる」「言い訳しない」といった名言を大事にしていると、理不尽な目に遭ったときや誤解されたとき、「闘う」「弁明する」という行動が取りづらくなるかもしれません。過度に一般化によって名言が見えない足枷となり、柔軟な対応が取りづらくなってしまうのです。
②論理的に考えることを妨げる
何かトラブルがあったとき、前編で書いたように現状・原因・対応策を整理して考えれば、それなりに活路は見いだせるもの。でも、名言・格言に心酔していると、抽象的・観念的な精神論で止まってしまい、現実に即した具体的な解決策まで思考が届かなくなる傾向があるように思います。
③自分に無理を強いた分だけ、他人にも押し付けてしまう
これは特にストイックな名言に特有の傾向ですが、常に自分に厳しくしていると疲れが溜まっていきます。疲弊した脳は、「こんなに頑張っているのにどうしてうまく行かないんだろう」「それは周囲が“わかっていない”から」「みんな同じように努力すべきなのにしないから、私がどれだけ努力しているかわからないんだ」と、一時の安らぎを得るために謎理論を打ち出すようです。
④「知っている」だけなのに「できている」気になり、成長が止まる
先の3つとは異なる方向性ですが、「知識として知っただけなのに、あたかも自分ができている気になってしまう」という症状も見受けられます。こうなると、何も学んでいないし成長していないのにプライドだけが肥大化していくことに。
その背景にあるのはたぶん「周囲からすごい人と思われたい」という気持ちなのですが、「できるようになること」よりも、「できていると周囲に思われること」のほうを大事にしてしまうと成長は止まります。どんなにいい言葉と出会っても、自分を省みるきっかけにはならず、気に入らない他者を見下す道具として使ってしまう。結果、「周囲からすごい人と思われたい」という願望も叶わない。
脱線しますが、2019年現在、最新のコミュニケーション理論や手法を学んでいる人の中にもこの手の罠に陥っている人が結構いる気がしています。トラブルがあったときに「間違っているのは相手」と断じるためにその理論を使ったり……。どんなに理論や手法がすばらしくても、服用する側が未熟だと「理論武装し自分の非を絶対に認めないヤベエ奴」が爆誕してしまうという罠……。
でも私も人をブン殴るために茨木のり子『自分の感受性くらい』を諳んじるようなクズだったので人のこと言えない! すばらしい詩を呪詛として使うなんて!! 茨木先生ごめんなさい!!
というわけで、こうした症状を抑え思考をクリアにするために名言をデトックスすることにしたのです。当時プチ断食にハマっていたので、精神的にも同じことしたらいいんじゃないかなと思って。
心惹かれる名言に出会っても丸ごと飲み込まない(絶対視しない)。自分の心に深く根ざして無意識のうちに思考や言動に影響を与えていた名言に対しても、「まぁこういうスタンスが有効なときもあるけど、そうじゃないときもあるよね」と距離を取っていく。
入ってくるものが減ればいまの自分を構成するものに取り掛かりやすくなるし、名言格言だけじゃなく、「いつか誰かに言われて内面化してしまった言葉」「そのときには有効だったけど、全てに通用するわけではない姿勢」なども見つけやすくなる。そして、味覚と同じように思考癖も一度リセットすると「自分にとって本当に必要な考えを必要な分だけ」取り入れられるようになるものです。
私にはこれが結構有効で、数年続ける内にだいぶ絡まった感情・思考の毛糸の嵩が減っていきました。
何かトラブルが起こったときも、条件反射で対応するのではなく冷静に問題点を整理してから行動するのであまりこじれないし、日常生活が平穏に。これまでの苦労は何だったんだ……。
なので、もし上に挙げた症状に思い当たる節がある方がいたら、ひとつの方法として参考までに。
ただ、この数年後にマルチに勧誘され、まだまだ不十分だったことを知るのですが。
<関連記事>
コメントを残す